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仙台市登録無形民俗文化財 秋保神社神楽

   

秋保神社の神楽 
1976年刊 『秋保町史』より (かな使い等は原文のまま)

 (一) 由   来

 秋保神社では、毎年正月十四日と九月十五日の例祭の二回、
野中部落の人たちによって法印神楽が奉納されてきた。

 この神社は、もと諏訪神社と呼ばれ、
永正十年(一五一三)秋保五ヶ村の領主秋保盛房が居城奪回を祈願して、
信州下諏訪社から勧請してきたものであるが、
この神楽も、その分霊に際し御神体に供奉して
この地へ下向してきた人たちによってもたらされたものと伝えられている。

  『別当系図』(秋保神社所蔵)六世吐妙電坊唯識(慶長三年一五九八逝去)の項には
「当代に至りテ伊勢ノ相模守卜入魂シ年々定宿トナシケルニ相模申ケルハ、
当社へ奉納ノ神楽ハ宮川流卜申シテ数無キ舞ナリ、
後々ノタメ記之」とあり、少なくとも四百年以上の歴史を持ち、
しかも珍しい神楽であることがわかる。

 明治十一年十一月六日には、宮城県神道中教院の試験に合格し、
松原沖見と山下大古が「神楽取締」を命ぜられている。
更に同十七日の中教院の四柱祭典において上演され、
次のような祝歌が下賜された。

 四柱の神の御恵ミを蒙りて 弥も窮めて栄へ行くべし  千早拡神の御霊の幸へにも  ミ子の扇は末長袋

因にこの時の舞人は、松原沖見・同一見・同建三の親子三人と、
石垣治郎右ェ門・荒若久治・佐藤勘左ェ門で、
笛は笛丑松、太鼓は山下大吉であった。
明治三十四年には、神楽規約が取決められてしる。
神楽は、例祭の宵宮の十五日夜に舞われる。(*)


 (二) 舞いの内容

 長床を楽屋とし、その前面に六尺に九尺の厚板二枚を重ね、
その四隅に忌竹を立て、しめ繩を張り巡らす。
舞人は七人位で、太鼓と笛に合わせて舞うが、
太鼓は丹野家、笛が笛家で各々世襲されてきたように、
代々勤める家が決められ、またその総本締として
「神楽長」(現在は丹野次郎氏)なる役が設けられている。
尚この時かぶる面は、いづれもかなり古いものである。
番組は次の十二幕が伝えられてきた。
(**)


一、湯検座

 老翁の相を現わす尉面に鳥兜をかぶり、
千早(舞衣風の襷)と袴姿の者が、白の幣束と鈴を持って舞う。


二、祝 詞


 宮司が猿太彦(天拘)の面をかぶって祝詞をあげる。

三、宮 清(宮鎮め)

 おたふくの相を現わす神子面をかぶり、白足袋をはいた者が、
鈴と幣束を持って神代の歌を唄いながら舞う。


四、四方幣

 女の神様のおめんをかぶり、白足袋をはいた者が、
五色五本の幣束を採り、そのうち一本だけ腰に残し、
あとは四隅に投げとばし、鈴を振りつつ舞う。


五、四面切

 赤熊(しゃぐま:赤く染めた熊の毛)をかぶり、
襷に指貫姿に太刀を持ち、
四方のしめ繩を斬って悪魔を退散させる。


六、御弊招

 宮司が、本殿から御弊をおさげしてきて、それで舞う。

七、魔 王

 赤熊に法面をかぶり、剣と鈴を持っていろいろなしぐさをする。

八、神 拝

 猿田彦の面をかぶって大口袴をはいた者が、
鉾で泥海をかぎ混ぜる振りをする。


九、簫 足(ひょうそく)

 赤熊の者が剣二本を回しながら舞う。

十、小弓遊(牛人どう)

 山神と水神に紛した二人が、弓を持って舞い、
最後に一人が天を向け、一人が地を向けて各々弓を射る。


十一、三足舞

 三人が、しやぐまに千早・指貫姿で、鈴を持って舞う。

十二、三人剣(三本剣)

 三人が、鳥兜をかぶり、
千早・白衿・指貫姿で、太刀と鈴とを持って踊る。


最後に神官によって湯立てが行なわれる。これは、
釜の中で御湯を煮たて、それを法印が拝みながら
笹葉を束ねたものでかき混ぜ、ぬるくなったものを、
見物人に浴びぜかげる。これが頭にかかれば、
年中頭痛や風邪をひかないといわれている。

 囃子は、どの曲も同じで、ただ各々の中頃になると早目になり、
それによって振りも異なってくるという仕組になっている。
この神楽は、テンポが極めて緩かで、
そのためおごそかで神聖な感じを与えるところに、その特徴がある。

(岡崎正蔵氏談、その他による)


教育文化振興会注
(*)  現在は1月14日(どんと祭)には夜19;00 9月の例大祭には初日午後に演じられている。
(**) 平成30年に新たに秋保神社神楽殿『和楽殿』が竣工し、神楽は舞台で、湯立ては神楽殿前で行われる。


毎年9月に行われる秋保神社例大祭での奉納




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(一般財団法人)秋保教育文化振興会    

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